信号が人を左右する

とあるゲイの雑記です。何も遺せないので、せめて思ったことくらいは

【なんちゃって読書感想文】ディラン・エヴァンズ『感情』

こんにちは。うれたんです。

読書が好きです。小説から実用書まで、何でも読めます。

でも、今まで何百冊と読んできたにも関わらず、感想を記したのは10冊にも満たない程度…

その中でもちょっと最近の僕に刺さった読書感想文です。

 

 

 

情動について

音楽と感情

この本では情動について興味深い考察がいくつかなされていますが、僕がもっとも共感を覚えたのは音楽が人の感情を操作しうるという主張です。

僕は良く音楽を聴くし演奏もしたりすることもありますが、音楽というものにはそういった力があると常日頃から感じています。快活な曲を聞けば心もウキウキとしてくるし、逆にゆったりとした曲を聞けば穏やかな気分になったりするものです。

ですが当然、状況に合わせた曲選択は大事だと思います。たとえば車に乗っているときに快活過ぎるような曲を聞いたらスピードを出したくなることだってあるはずです。

禁止と感情

禁止されているから普段ならやらないような行為も情動の強さによってはやってしまうこともあります。一般道で120㎞/hなんて出してしまうことだってあるかもしれません(絶対にダメです)。

本書の中でも言われていたことですが、情動に溢れている状態の時は理性は押し切られてしまうことがよくあるように思います。自分の気に入っているものを完全に事故で壊されてしまったときなどは、理性では当然その人には責任はないということがわかってはいても感情の面ではその悲しみ、怒りをぶつけるはけ口としてその人を選んでしまうこともあります。往々にして、その後に後悔するのは自分です。

人間と感情

こうして考えると情動に突き動かされてしまうのはあまり良いこととはいえないように思えます。個人的にはそう思っているし、情動に突き動かされて行動した結果、満足した経験はあまりありません。短絡的にしか考えていないからです。目先の感情に突き動かされ動くのはあまりにも人間らしくないと思ったりもします。

 

だからといって情動・感情を否定するわけにはいきません。感情がなければいいなんてことを思うのはナンセンスです。

本書でもたびたび触れられていますが情動は命の危険を回避したり、不思議なことですが信頼できる人の選別にも役立ったりするからです。社会がうまく機能しているのは情動の存在が大きく、それこそ罪悪感というものがなければ極端な話ですが、自分に害するであろう者はすべて排除した方がいいに決まっているのです。そうした方が自分のストレスもなくなります。

 

コンピュータは感情を持ちうるのか

また、もう一つ僕が感銘を受けたものはコンピュータが感情・意識を持ち得るのかという議論です。作者はありえないことではないという立場をとっています。

この議論を通して情動はIF関数のようだなと思いました(職場でExcelを使うことがめちゃくちゃ多いのでそんな発想になったんでしょうが……)。

ある流れを基本的には遂行していきますが、条件下では違った動きに分岐します。たとえば基本的には足し算をしていく中で、もしなんかのキーとなるものが入力されていたら掛け算をするといったように。情動はこんな感じではないのかなーと思ったりしました。そう単純にはいかないでしょうが。

要するに常には理性にしたがって日常生活を送るのですが、あるスイッチのような出来事が起こると途端に悲しみや怒りといった情動が発生するという風な話です。それではコンピュータが情動を発生させることもいずれはできるようになるのではないかと考えたのです。ある外的刺激を受けたら怒りの反応を見せるなど、もしかしたらロボットとはこういったものなのかもしれませんが……

それでも意識があるかと言われたらそれは疑問です。そもそも意識というものは具体的に定義しろと言われても僕には難しいです。自分が今持っているこの意識は本物なのかというところから始まるからです。世界三秒前説のように僕の持っている記憶は三秒前に作られたもので、僕という存在は三秒前から始まった可能性だってあります。

そういう風に考えると、極論ですが、昨日の自分が持っていた意識さえ今持っている僕の意識と同じものかどうか少し疑わしくなってきます。また死んだあとはどうなるのでしょう。あまり死後の世界を信じてはいないのですが、死後意識がふつりと途切れると考えると怖いし、もったいない気もします。眠るときのような感覚なのでしょうか。死ぬ時を待たなければわかりません。まあもっとも、死んだらもうわかりやしないのですが。

 

生物と「愛」

ところで第一章において愛とは高次認知的行動のひとつとして紹介されています。この高次認知的行動の紹介として、

「まさに、私たちの祖先が徐々に複雑化する社会環境にうまく対処するのを助けるべく、自然選択によって、設計されたものであるように思われる。」*1

とされています。これは、僕の解釈ですが、交尾という手段が一歩ひかれた視点から見られてしまう人間社会の中で、子孫繁栄のため恋愛というステップを挟むことで美しいものとするということかなと。動物が種の存続を考えるのは当然のことです。

ここでちょっとした疑問があります。僕は同性愛者です。別に心が女性だというわけではないし、男性として男性に恋愛感情を持つのですが、この場合はどうでしょうか。僕はおそらく、恋愛(美しくはないかもしれないですが)というステップを踏んでも子孫繁栄に貢献することはないでしょう。というか不可能です。同性愛者は設計ミスなのでしょうか。個人的にはそんなことは思いたくはありませんが、ひょっとしたら僕の感じている感情は愛ではないのでしょうか。それも悲しいことです。

 

幸福について

僕の知っている言葉にこういったものがあります。

「幸福という言葉を知らなければ、人類はもっと幸福であっただろう。」

誰が言ったのかもどんな本で読んだのかも覚えていませんが、当時はうなったものです。他人と幸福量とでもいうべきものを競うから人間は自分が満たされていないと思い込む、実際には恵まれているはずなのに。ならば、競うような概念をなくせばよいということだろうと、当時中学生だった僕は思ったものでしたが、今はちょっと考えが変わっています。

幸せは追い求めなければいけない。その結果、他人と幸せ合戦をすることになっても、そうすることは幸せを増やし、質も高める。ただし、ここにおいて大事なのは今自分は幸せなのだと感じることであるように思います。これが一番難しいでしょう。というか難しいです。相対的な幸せではなく自分にとって絶対的な幸せ、これを求めるべきであるように思います。

ずっと、ひとりぼっちな自分が嫌いで、コンプレックスでした。周りはみんな楽しそうに、仲良さそうに遊んでいたりするのを外からみて、うらやましいなと思っていました。勝手に比較して、勝手に「周り>自分」の図式を組み立て、勝手に自分に失望するのです。遊ぼうと言えない自分に、楽しい時間を提供できない自分に、何よりそんなことでうじうじしている自分に。

自分の時間をとれるのは幸せなことです。リアルが充実している人々をうらやむのではなく、好きなように好きなことをやるのが一番いいのであろうとそう感じたりもします。でもやっぱりそれが一番むずかしかったりするのです。

 

読んだ本

・ディラン・エヴァンズ[2005]『感情』岩波書店

*1:エヴァンズ[2005]P.26

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