信号が人を左右する

とあるゲイの雑記です。何も遺せないので、せめて思ったことくらいは

イスラーム世界の展開とその文化

こんにちは。うれたんです。

ちょっと興味があったので、イスラームについて調べたことがあります。

共有します。

 

 

 

イスラームとは

何より先に定義しなくてはならないのはイスラームという言葉の意味だと思います。

普段「イスラーム」と我々が耳にしたときイメージするのはおそらく宗教としての「イスラーム教」であると思います。

イスラームというのは絶対的なものに対し完璧に服従している状態のことであり、宗教の本質、純粋型です。他の諸宗教だけでなくイスラーム教もそれに帰属せよとされます。したがって、唯一絶対神アッラーに対する絶対的な服従、帰依はイスラーム教の本質と言えるのです。

また、イスラーム教について、他の宗教(キリスト教ユダヤ教など)と大きく異なるのは聖俗不分であること、そしてイスラーム教と同じく啓典を基にする宗教を受け入れる体制を持っているということです。

キリスト教や仏教などでは神の次元、宗教関連は聖なるもの、この世は俗なものとしての考えがありますが、イスラーム教にはそれがありません。聖なるものも俗なものもない。すなわち、我々が日常生活を送っている中でふと出会う宗教的な感覚をイスラーム教徒は感じないということになります。

彼らにとって、宗教イコール生活であるし、生活イコール宗教なのです。

また、日本では「政教分離」という言葉が指し示す通り政治に宗教を持ち込むのはご法度とされていますが、イスラーム教では当然政治も宗教です。日々の生活の動作それぞれに宗教的要素がアサインされているのです。

イスラーム法にはメッカ巡礼の仕方、日に五回の礼拝の仕方から始まり、民法、商法、果ては社会生活から家庭生活の細部にまで及んで規定されています。これにより、イスラーム教徒は日々の生活を命令と禁止にという形で固められています。それが神の意志である以上、絶対服従イスラーム教徒はそれに従わざるを得ないというわけです。

キリスト教ユダヤ教などは啓典、聖典を持つ宗教です(新約、旧約聖書)。イスラーム教はこれらの信徒を「啓典の民」として受容しました。そもそも『コーラン』によれば、キリスト教における神、ユダヤ教における神、イスラーム教における神は同一とされます。預言者系図にもモーセやイエスの名も記されており、ムハンマドは最後の預言者とされています。

 

ムハンマドの行ったこと

ムハンマドは「象の年」と言われる570年にメッカでクライシュ族ハーシム家という集団の中に生まれました。ところでアラブ人は集団への帰属意識が強く、特に血族、系譜意識が強力でした。ムハンマドでいうところのクライシュ族ハーシム家、こういった集団に属さない人間は人でなしと呼ばれたらしいです。

610年ごろ、ヒラー山で瞑想に耽っていたムハンマドはある特殊な体験をしました。その体験を神からの命だと考えたムハンマドは自らを預言者(神からの命を預かった者)として人々に警告を発するようになります。信徒は非常に少なく、様々な方面からの圧迫、迫害も多かったそうです。妻と叔父の死後、ハーシム家からも迫害を受けるようになったムハンマドはメッカでイスラームを説くのをやめ、メディナへ移住することにしました。これがいわゆる聖遷、ヒジュラ(622年)です。世界史で学びましたね。

ムハンマドたちをメディナの人々が受け入れた理由としては当時メディナで内戦が起こっていたことがあげられます。イスラームムハンマドを受け入れ、和解の調停をさせることで停戦を図るつもりだったのです。

メディナでの布教の後、信徒を増やしたムハンマドはメッカに戦争を仕掛けます。戦争は三回ほど行われ、最終的には勝者としてムハンマドはメッカに入りました。この戦争を通して、ムハンマドウンマと呼ばれるイスラーム共同体としてメディナをまとめ上げました。かつてムハンマドを迫害していた人々も積極的にウンマに参加するようになりました。

カーバ神殿はもともとアブラハムが建てたと言われていました。そこを守るのはメッカ市民としての義務であり、誇りでありました。

カーバ神殿に祭られていたのは唯一神アッラーでしたが、多数の偶像もそこにありました。イスラーム教の特徴として偶像崇拝禁止というものがあり、これにより、630年のメッカ征服の際に偶像はすべて破壊されました。そしてイスラーム教徒の聖地として巡礼の目的地として今日に至ります。

 

ウンマの意義と連帯意識の推移

ウンマの運営は多少の混乱はあったもののきわめて円滑に行われました。これはムハンマドの宗教的カリスマ性、指導力があったからだと考えられます。

ウンマの存在によってそれまでのアラブ人的な血縁関係の支配は終わりを告げ、その代わりとして神との契約により、宗教的(イスラーム的)関係が生まれました。自分たちは同じ神に対し契約を結び、まったく一つの宗教に参与している、同じ一つの信仰に生きているのだという宗教的連帯意識のことです。

しかしアラブ人の根底にはベドウィン(砂漠の民)的な血の連帯感が強力に残っていました。宗教としては完全にこれを否定したのにもかかわらず、この血縁意識は歴史上あらゆるところでイデオロギー的な問題を引き起こしました。

コーラン』にはこう記されています。

「信徒らよ、たとい己れの親、兄弟だとて、もし信仰より無信仰を好むようならば、決して同士と思ってはならぬ。汝らの中で、そういう人々を同士とする者あれば、それこそまぎれもない不義の徒。」(9章、23節)

と。

いずれ訪れる終末の日、そのカオスな状況で親兄弟が何の役に立つのか、ということです。

またこういった宗教的連帯意識が生まれることでイスラーム教は世界宗教としての性格を持つことになります。先天的に持っているアラブの血縁を依り代にしていたのでは当然ある一定の範囲にしか布教することができない、しかし、神への帰依を依り代にするのであればそれはある種後天的なものなので、理論上誰でもイスラーム教を信仰することが可能になります。

そういった発展を見越したうえで、であれば、血縁的連帯意識の廃棄は理にかなったことであると思われます。もしかしたらムハンマドが自分の血縁集団であったハーシム家から最終的には迫害を受けたこともその思想に影響を与えているのかもしれません。

 

ムハンマドの死後

632年、預言者ムハンマドは亡くなりました。意外なことに死後も大きな混乱は起きなかったそうです。これはムハンマドはあくまで人間であり、神性を持たなかったからだと考えられます。彼はことあるごとに自分が一介の人間であることをアピールしていました。『コーラン』にも

「めしを食い、市場を歩きまわる」(25章、8節)

との記載があるとおり、ムハンマドは自分が神聖視されるのを極端に嫌いました。

 

ところでムハンマドの死後、イスラーム法(シャリーアが成立しました。

イスラーム法では『コーラン』に基づいて、絶対善、相対善、善悪無記、相対悪、絶対悪の5つに行為を区分しました。これにより人間の行動を画一的に規定しようとしたのです。

さて、このイスラーム法は『コーラン』、つまり神の意志に依っているため、前述したとおり命令と禁止の形をとります。ここで『コーラン』の解釈が必要になってきます。どういうことかというと、例えば「リンゴを食べろ」という命令があったとします。ここからわかるのは「リンゴを食べなくてはならない」ということであり、「どこで」「誰が」「いつ」「どのように」食べればいいのかはわからない。つまり、「今ここで」食べるのか、「一回だけ」食べるのか、はたまたリンゴ「だけ」を食べるのか(他の食べ物を食べてはいけないのか)。この命令だけでも無数の解釈があります。これを解釈するのはイスラーム教にとって非常に重要なファクターでした。『コーラン』を読み解く学者のことをウラマーと呼びます。

コーラン』解釈においての非常に大きな困難は、すでにムハンマドが亡くなっていたことです。もしわからない箇所があれば預言者であるムハンマドにお伺いを立てれば、当然ムハンマドの答えは神の答えであるので何も苦労はいりませんでした。生きた法典だったためです。しかし、ムハンマドは亡くなっているうえ、最後の預言者であるので、直接聞くこともできません。となると、第二次的聖典が必要となります。これはハディースと呼ばれる、ムハンマドの言行録にあたります。ムハンマドの言ったこと、行ったこと、あるいは言わなかったこと、行わなかったことも重要視されます。イスラーム教徒からすれば『コーラン』も「ハディース」にも誤りはありません。神の意志だからです。

 

イスラーム法について

コーラン』と「ハディース」はそこから法体系を作るためのある種の材料、ツールではありますが、それ自体が法的規定であるわけではありません。そうすると、いくつかの派閥にわかれる可能性というのは自明のことです。

ハンバリー派、マーリキー派、ハナフィー派、シャーフィイー派の4つが正統派(スンナ派)の四大法学派と言われます。また、正統派と対立するシーア派も独自の法体系を持っています。これらの学派、シーア派の法学も著しい相違を示しています。これは解釈が多岐にわたることを示しています。

この法体系の形成のフレキシビリティが引き起こす可能性の一つとして、どんな問題が起きても『コーラン』「ハディース」の独自の解釈により解決できるということがあげられます。これでは神の意志の名のもとにいかなる行為をも行うことができるという事態が発生してしまいます。

こういった事態を避けるために、9世紀半ばという非常に早い段階で聖典解釈の自由が禁止されました。人間生活等の問題とその法的解決ももはや議論の余地はないので昔の解釈者の解釈通りに判断せよ、ということです。『コーラン』と「ハディース」とを個人が独自に解釈し、法的判断を下すことを専門用語で「イジュティハード」と呼びます。そして自由解釈の禁止のことを「イジュティハードの門の閉鎖」と呼びます。

これにより、イジュティハードによる混沌への陥落は避けることはできたものの、文化的にみるとそこで完結してしまっているため思考停止に陥ってしまっているという見方もあります。近世におけるイスラーム文化の凋落の一因としてこれを見ることができるとも。ちなみにシーア派はイジュティハードの門を封鎖していないそうです。

19世紀半ば以降、再びイジュティハードの門を開かなくてはならないという声が上がり始めました。加速度的に進化していく社会に適応し、生存していくためには聖典解釈は必要不可欠だという論理です。

 

結論

イスラーム教は非常に厳格な宗教です。

コーラン』を基に、神への帰依、絶対服従を軸とするイスラーム法は守られなくてはならない、というよりは守らなくては生活が成り立たない。我々の場合は行為の後にふと法律が立ちふさがるということがよくありますが、イスラーム教徒の場合はそれはありえません。行為以前に法律があり、行為が規定されているからです。

さらにはその法が定められたのは9世紀のことであり、当然、現代に即さないものもたくさんあるでしょう。したがって、イジュティハードの門を今一度開け、見直しを図るべきだという考えもあるようです。

しかし、11億人もの信徒がいきなり独自解釈を始めたならば、混沌、アナーキーな状態になることは間違いありません。中には過激な行為に走る者も出てくるかもしれません。ゆえに、その解釈は洗練された知恵と知識を持つウラマーらに託すべきであると考えます。

ぜひこれからのイスラーム世界の動きに注目していきたいと思います。

 

参考文献

井筒俊彦[1981]『イスラーム文化―その根底にあるもの―』岩波書店

 

板垣雄三佐藤次高 編[1986]『概説イスラーム史』有斐閣選書。

 

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