『山月記』と僕の中の自尊心
こんにちは。うれたんです。
この間、ふと高校の国語の教科書に載っていた『山月記』という小説を思い出しました。
みなさん読んだことはありますか?
昔の中国で優秀な役人だった李徴がその「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」により虎になってしまうという話です。
僕にとって、とてもとても印象深い小説でした。
思い当たることが多くて多くて……
臆病な自尊心と尊大な羞恥心
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」って面白いですよね。
普通、逆に修飾しませんか?「尊大な自尊心と臆病な羞恥心」って。なんでだと思います?と高校の国語教師が言っていたことを思い出します。
己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢えて刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。*1
と李徴は述べています。
優秀な役人であった李徴は、詩人になろうとするのですが、芽が出ず、(めちゃくちゃ端折りますが)虎になるのです。
その理由を述べているのが上の文だと思います。
李徴は、自分に才能がないことを恐れ、あえて苦労してその才能を磨こうとしませんでした。また、それでいて、自分に才能があるということを信じており、他者と同じような立場に立つこともできませんでした。
自分に才能がないということを認識したくない、プライドを傷つけられたくない、だから努力はしない。
そしてそれでいて自分には才能がある、特別だと信じているから他の人と同格の立場にいることを受け入れられない、だから人を避けたり尊大な態度をとって人を見下したりする。
それはまさに「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」ですよね。
自分について振り返ってみる
李徴の言う「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」、こういう気持ちってみなさん持ったりすることはありませんか?
「まだ本気出してない」とか「ああやって群れてる人間たちは恥ずかしいな」とか思ったことはありませんか?
それでいて「本気を出していない、というより自分の低レベルぶりが露呈してしまったら怖いから動けない」とか「楽しそうにコミュニティを築いてるけど、でも僕にはもっとふさわしい場所がある」とか思っていたりしませんか?
僕は大いにあります。大いにありすぎて恥ずかしいです。こんなふうに永遠に現実逃避をしています。
思えば、ずっとそんな感じで生きてきました。
小・中・高と授業中に僕は自分から積極的に手を挙げ発言するタイプの生徒ではありませんでした。
これは僕の自尊心の強さに起因するもので、「間違えたらどうしよう、失敗したらどうしよう」などと考えてしまうことが多々ありまして。
それでいて先生が正解を提示したときに自分の答えが間違っていなかったことに安堵し、「なんだよ、超簡単じゃねーか」などと態度が急変したりしたものでした(もちろんすべて心の中での話です)。
本当に、こうなった原因はよくわからないんですが、僕は間違えたり失敗するのが怖いんです。
それもこれもすくすくと育った、育ってしまったプライド―しかも健全ではない―が邪魔をしてくるわけです。結局のところ自分のことが一番大切なんですね。
というわけで、僕も悪いプライドの高い人間で、この『山月記』が本当に他人事に感じられず、とても印象に残っているのです。
後はそうですね、僕はよく自己嫌悪に陥ります。
本当に自分が情けなくて嫌になることも稀ではありません。
でも自己嫌悪なんてものを感じるような人間はある種逆説的にナルシストであって。
「こんな自分は本当の自分じゃない」なんて思いが根底にあるからこそ自分を否定したがる、なんてなんかの本に書いてありました。
まさに「臆病な自尊心」ですね~
GWが始まりますが、外出自粛で暇な方、『山月記』読んでみてはいかがですか。
もう青空文庫で読めますよ。
そして、聞かせてください。あなたの「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」を……
・青空文庫